ステパンチコヴォ村とその住人

楽しい場を後にして向かうは劇場。モスクワのはじっこにある、無名の劇場です。
演目は、ドストエフスキーの「Село Степанчиково и его обитатели(ステパンチコヴォ村とその住人」です。
客席数は100ほど。また、舞台も小さく、まるで中学校の体育館に作ったかのような広さです。前回行ったモスクワ芸術座よりも、かなりこじんまりしています。ですが、その分小物類や舞台芸術には力を入れていた模様。また、規模が小さいため、どこにいても迫力のある演技が楽しめます。僕は前から2列目といういい場所だったのですが、俳優の息遣いや額に浮かぶ汗、頬が紅潮する様子までわかります。

自己愛、エゴイスト

さてドストエフスキーの作品の人物の多くは、偏執名なまでの自己愛者、エゴイストとも言えるくらい、自分の感情を手加減なしにぶつけるという特徴が、ひとつにはあると思います。少し冗長なくらい長いせりふを、「両手を振り回して」主張しています。その冗長さが、戯曲や短編を中心に執筆したチェーホフとの違いでしょう。
話題の中心となるのは、村に「皇帝」の如く君臨する屋敷の居候フォマー。この作品も例外ではなく、多くの登場人物が自分のせりふを舞台でまくしたてます。
ただひとつ、他のドストエフスキー作品と違う、と感じたのは、そうした自己愛、エゴということに対する回答の断片があるのでは、と思った点です。この物語は極端な自己愛者フォマーの話ともとれますし、せりふには、ズバリそのもの「эгоист」「самолюбец」(エゴイスト、自己愛者)という単語がよく出てきます。また、終盤、フォマーの絶叫するかのような台詞を以下に挙げます。

Я хочу люьить кого-то,но я не люблю никого.Я люблю Фаларей,но я ненавижу его.Потому что он Фаларей!
(私は誰かを愛したい。だが私は誰も愛さない。私はファラレイを愛しているが、私はファラレイを憎んでいる。なぜなら、ファラレイだからだ!)

ファラレイというのは屋敷の若い下僕で、彼はドストエフスキーの作品にしばしば登場する「聖痴愚」の役割を果たしている。
フォマーの矛盾に満ちたこの発言。この矛盾に、筆者の考えるエゴイストの本質があるのかもしれません。つまり、自己愛=他者愛への欲望?

参考文献 亀山郁夫先生「ドストエフスキー 父殺しの文学」(NHK出版)